2023年10月26日
社会・生活
客員主任研究員
松林 薫
私は広島市で生まれ育った。そのせいで戦後30年近くたって生まれたにもかかわらず、少年時代の思い出の多くが原爆と結びついている。夏休みには川底の泥の中に、熱で表面が泡立った「原爆がわら」を探した。中高時代は毎日、市電から原爆ドームを眺めながら学校に通った。
戦後生まれの広島市民にとって、戦争と聞いて真っ先に思い浮かぶのは1945年8月6日に起きた悲劇だったし、それは自分たちの暮らしと対極にある「非日常」の象徴でもあった。そのせいか、原爆を身近に感じながらも、戦争は自分たちから遠く離れた別世界の事件なのだと無意識に思い込んでいたような気がする。
同じことは戦争報道についても言える。ベトナム戦争や湾岸戦争など、海外の戦争は報道機関によって伝えられてきた。記者は「ニュース」を伝えるのが仕事だ。前線の戦闘や戦争犯罪など、読者や視聴者が普段は目にしない特殊な現実を選んで焦点を当てる。私たちの戦争観は、そうした非日常のイメージから作られてきたと言っていい。
しかし戦後80年がたち、少し違った戦争観に触れる機会も増えてきた。それを最初に感じたのは2016年公開のアニメ「この世界の片隅に」(監督:片渕須直、原作:こうの史代)を観たときだ。原爆の悲劇を描いてはいるものの、物語の大半は主人公「すず」の何気ない日常が占める。むしろ、現在と変わらないささやかな日々の中に戦争の悲劇があり、その悲劇の後も日常は延々と続いていくことに気づかされ、ハッとする。
古川英治氏のノンフィクション「ウクライナ・ダイアリー」(KADOKAWA)を読んで感じたのも、それに似た戦争のもう一つのリアリティーだった。筆者はウクライナ在住のフリージャーナリストだが、ロシアによる侵攻を取材するため赴いたわけではない。新聞社でモスクワ特派員をしていた時期に知り合った妻がウクライナ人だったため、たまたま現地に住んでいたのだ。その日常に、戦争が割り込んで来る。
筆者は特派員時代の取材を通じ、ロシア軍が占領地で行った残虐行為を知っていた。このため開戦後、妻やその母親らにキーウを離れるよう必死で説くが拒絶される。異邦人である筆者と、その土地に生まれ育った人々の意識はすれ違い、ギャップは容易に埋まらない。危険が迫ってもなお「日常」にとどまろうとする姿に、筆者は戸惑う。
2014年のクリミア併合以来、すでにウクライナは紛争状態にあった。国民が戦争に慣れていたという面はあるだろう。無意識に危険から目をそらしてしまう「正常性バイアス」だと言う人もいるかもしれない。しかし、そもそも市井の人々は簡単に戦争から逃げることなどできない。街には親戚や友人が住んでおり、仕事もある。何よりそこは住み慣れた「自分たちの土地」なのだ。
避難の必要性を訴える筆者に、妻が問い返す場面が印象的だ。
「あなた、これがもし日本だったらどうするの?」
そんな妻の問いに私は反射的に答えた。
「もちろん、逃げる」
彼女の顔に侮蔑の表情が浮かんだ。
「あなたはそうでしょうね。私は逃げない」
なおも食い下がる筆者に、妻は「私は銃を買うわ」と捨てぜりふを残して立ち去る。
ロシアのウクライナ侵攻で被害を受けたキーウのショッピングセンター
結局、現地に残ることにした筆者は戦時下のウクライナを取材し始める。ブチャの凄惨(せいさん)な虐殺現場、政府高官のインタビューなど、貴重な記録が並ぶ。しかし、それと同じくらい印象深いのが戦時下の市民の暮らしぶりだ。
世界的な小麦産地であるウクライナの誇りでもあるパンを焼く人々。お客さんがほとんど来なくなっても店を開け続けるレストラン。警官が引き上げる時間を見計らって立ち入り禁止のビーチに繰り出す市民...。おそらく大半の人にとって、戦争は銃弾が飛び交う戦場ではなく、こうした日常の中にある。
日本の戦争報道や平和教育は、もっぱら戦争の劇的な悲惨さに焦点を当ててきた。それは国民に戦争への嫌悪感を植え付ける意味では成功したと言える。しかし同時に、日本人を戦争のリアリティーから遠ざけてしまった面もあるだろう。
自分の国が戦争に巻き込まれても日常は続く。その時、自分はどう生きるのか。中東でイスラエル軍がガザでの市街戦を準備し、アジアでも台湾有事の不安が漂う中、その重い問いを突きつけられたような気がした。
松林 薫